「くまもと」138号・エンタイアが語る15年戦争(その1)

2003.3発行

貴方の趣味はと聞かれると以前は切手収集ですと答えたものです。最近、趣味は何ですかと聞かれた場合、ハタと困ってしまいます。最近は切手ではなくエンタイアを主に集めているので、切手収集という言葉に抵抗を感じているからです。妻は紙屑を集めていると表現しています。

しかし、その紙屑が歴史を語ってくれます。伝統郵趣でのエンタイアの見方プラス現代史の面からの検証を行うと、現代史の生き証人としてのエンタイアが浮かび上がってきます。たしかに切手も歴史を語ってくれますが、そのインパクトはエンタイアの比ではありません。それぞれの時代を代表する、興味を引く物が多くあります。

昭和6年9月に始まった満州事変から、日中戦争、太平洋戦争の終戦まで、足かけ15年にわたる、いわゆる15年戦争の1ページを残された郵便で振り返ってみたいと思います。今回は子供に関するものを集めてみました。

1.佐賀県→フィリッピンへ出征兵士宛 児童からの慰問の葉書

引受 佐賀・厳木/17.10.12

葉書の文面

戦争の激化とともに戦意高揚のため、前線の兵士への慰問の手紙や慰問袋を送る運動が盛んになりました。この宛名の第322野戦郵便所はこの時期マニラに在り、また、「渡第9703部隊」とは、第14軍直轄部隊の重砲兵第1連隊(昭和15.7.15.下関で編成)の事で、この連隊は、香港攻略後フィリッピンのバターン・コレヒドール攻略等を転戦しました。

昭和17年7月に関東軍・第30軍直轄部隊として、満州・北安省に配置され、「敏第9703部隊」と呼ばれ、終戦までこの地に駐屯しました。

フィリッピン宛のこの葉書はフィリッピン宛軍事郵便交換局の下関郵便局で、部隊が満州に転出後のため、フィリッピン地区の部隊名簿に載ってないので受取人不明で差出人に戻されたのでしょう。

ちなみに、部隊の名称は昭和12年頃までは建制部隊名(第1師団歩兵第1連隊第2中隊 等)が使用されましたが、その後、部隊名を隠すために部隊長名で表示するようになりました。太平洋戦争開始の頃からは漢字1~2文字で表す兵団文字符と部隊固有の通称番号を組み合わせて表されました。

この連隊のように第14軍から第30軍に兵団が変わると部隊通称番号はそのままで、文字符が変わりました。(第14軍=「渡」→第30軍=「敏」)

2.埼玉県 → 埼玉県 集団疎開した児童から同じく疎開した姉への葉書

引受 長野・大屋/20.6.26 年号の数字の字体に注意。

葉書の文面

3銭楠公葉書に「東京・元村/料金収納」印押印した葉書を使用している(葉書5銭時期)。

伊豆大島には本土決戦部隊の第321師団(20.5.23.編成、約6,000人規模)が駐屯しました。それと時を同じくして大島でも学童疎開が始まりました。決戦場となる地域から次代の戦力となり、現在は手足まといとなる学童を疎開させたのでしょう。

疎開先では葉書や切手も不足しているので、学校からの指示で出発前に葉書を購入して持たせたと思われます。

「磯第8888部隊」=第321師団特設水上勤務隊