「くまもと」140号・エンタイアが語る15年戦争(その2)

2003.5発行

筆者:姫野 照正(ひめの てるまさ)

今回も歴史の片隅に埋もれつつある国民生活の幾つかをエンタイアで振り返ってみます。

4.勤労動員

学徒動員女学生が自宅に宛てた郵便。

引受 桑名/20.2.5

戦争の激化とともに青壮年達は次々と軍隊に徴兵され、全産業で労働力が不足するようになり、中等学校生徒達も労働力として動員されるようになってきました。1938年(昭和13)4.1.国家総動員法が公布され、文部省は1941年(昭和16).8.8.学校報国団の編成を指示し、各学校ごとに学校長を団長とする報国団を結成させ、この報国団が各軍需産業に労働力として送り込まれました。

1941年(昭和16).11. 22.国民勤労報国協力令が公布され、14~40歳の男子、14~25歳の未婚の女子による国民勤労報国隊(通称挺身隊)が組織されました。

さらに1944(昭和19).8.23.「学徒勤労令」、「女子挺身勤労令」が公布され学徒や女子の勤労動員が強化されました。

女子挺身隊員宛ての郵便

引受 (消印の局名不鮮明)/19.10.2

5.食料増産体制

農業増産報国推進隊中央訓練受講者からの葉書

引受 茨城・内浦/17.12.21

農村に於いても中心となる青壮年層が不足して、1940年(昭和15)8.12.から内務省と農林省は協力して農村の戦時再編成のため、農村報国会設立を推進しました。農村の指導的立場の成人を対象に食糧増産の指導者養成のため農業増産報国推進隊中央訓練が、茨城県内浦の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所で、毎年一ヶ月間行われました。また、昭和16年からは農業増産報国推進地方訓練が展開されました。

少年農兵隊(甲種食料増産隊1943年(昭和18)6.4.第1次食糧増産応急対策要綱を閣議決定し、昭和18年度から食料増産隊が組織されました。 1944年(昭和19).2.3.農商務省は食料増産隊の拡充を通牒、昭和19年4月から、国民学校高等科卒業の農家の後継者で満14~19歳までを対象に少年農兵隊(甲種食料増産隊)を都道府県単位で組織し、茨城県内浦の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所で訓練した上で各地に戻し、集団生活をしながら開墾作業や耕作、援農に専念させました。

また、農業学校等で組織した報国隊は専門を生かすため工場ではなく援農のため農家に派遣した例もあります。

少年農兵隊(甲種食料増産隊)からの葉書

引受 岡山・?/20.3.31

援農に従事した農業学校報国隊員からの葉書

引受 薄衣/20.3.7

6.満州開拓青年義勇隊

茨城県下妻村内原にあった満蒙開拓青少年義勇軍訓練所からの葉書

引受 茨城・内原/14.6.7

満州移民は関東軍による屯田兵としての発想から始まりました。1932年(昭和7年)10月3日東京を出発した第1次満州農業移民(入所地は佳木斯に近い永豊鎮、後の弥栄村)は在郷軍人による武装移民団でした。その後15年戦争が激しくなると青壮年は軍隊に動員され、移民計画に影響を与えるようになり、関東軍は満州開拓青年義勇隊を推進するようになりました。

1938年度(昭和13年)から国民学校高等科卒業生(現在の中学校3年生)以上を対象に、募集し、隊員は茨城県下中妻村内原の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所で2~3ヶ月訓練の上、満州国内に設けられた満州開拓青少年義勇隊訓練所に送り込まれました。

そこで3年間の訓練を受け、各地の義勇隊開拓団や満鉄の自警村開拓団等に入植しました。

送り出された義勇隊員は9万人とも10万人とも言われています。

満州国内にあった満州開拓青少年義勇隊訓練所内からの葉書

引受 一面坡訓練所内郵政弁事所/康徳7.5.15 康徳7年=昭和15年(1940年)